Behind the scene

映画とか音楽とか本にかんして。ブログ名はptpのアルバムから。

適当なことを考えました.

『終末なにしてますか 忙しいですか 救ってもらっていいですか』(以下、『すかすか』)は〈終末系〉作品とされています。この名称は、おそらく、物語の舞台が「終わることが決まった世界」であることと、「主人公の同胞=人間が全滅した世界」であることに由来しています。しかし、個人的な所感を先に明記しておくと、本作はわざわざ〈終末系〉という新しい名称を与えるよりも、〈セカイ系〉の変相ないし現代版と考えた方が良いでしょう。一応、〈セカイ系〉について復習しておきます。〈セカイ系〉とは主人公とその恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を指します*1。事実、『すかすか』においては物語のほとんどが主人公とヒロインの関係を描くことに費やされています。また、例えば主人公は一時的に「護翼軍」と呼ばれる軍隊に所属しているが、その全容はほとんど分からないまま物語は終了するし、人間以外のファンタジーならではの多種族が登場するにもかかわらず、彼らの生活様式などは全くと言っていいほど無視されているのです*2。一方で、この作品は〈セカイ系〉作品の形式にただ則っているだけでもありません。〈セカイ系〉的な想像力を引き継ぎつつも、現代的な想像力の枠組みにもみごとに対応しているのです。それは第一に主人公が異世界に転生する点にあります。いや、実際には字義通りの「異世界」に「転生」するわけではないのですが、500年後の世界=自分の生きた世界とは文化も社会も環境も異なる世界で再度生を得る。これは、構造的には、異世界転生そのものでしょう。第二に、本作の主人公は作品世界において、ある意味で生きている最強の戦士でもあります。こちらは、いわゆる主人公チート(俺TUEEEE)ものの想像力を意識してのことでしょう。

このようなキメラティックな作品が、平成の終わり、2010年代の終わりに注目される意味についてのちょっとした考察をおこなうことを本論考の目的として仮設定してみます。

 

まず、簡単に『すかすか』のあらすじを確認しておきましょう。

500年以上前、人類は「十七種の獣」により滅びた。生き残った他の種族たち(インプ、トロール、妖精、爬虫種、兎徴種など多くの人型の生き物が出てくる)は獣から逃れるため、空中に浮遊する島「レグル・エレ」に逃れる。本作は人類が滅ぶ少し前に呪いによって石化したヴィレムが、この500年後の世界で目覚めることで始まる。「十七種の獣」に対抗できる武器は、選ばれた人類(=勇者)がかつて手にした聖剣のみ。そして、この世界でその聖剣を手に闘えるのは黄金妖精と呼ばれる少女たちだけだった。かつては勇者に次ぐ強さを持つ勇者(準勇者)だったが、呪いの後遺症で聖剣を振るえないヴィレムは、最高の聖剣「セニオリス」を扱う妖精の少女・クトリとともに、世界を守るための彼なりの「闘い」を始める、誰もいない世界で。

 

さて、先程私は本作を〈セカイ系〉の変相といった。〈セカイ系〉という想像力は一九九〇年代の後半から二〇〇〇年代の前半に現れたもので、これらは当時の日本という特異な社会状況とつながっていた。〈セカイ系〉の想像力の問題。それをここでわざわざ説明し直すのはあまりに恐れ多いが、敢えて一言に要約するならば「社会について語る言葉を失った」ということになるだろう*3。社会について語る言葉を失った。もう少し厳密に書けば、「虚構を使って社会について考えることができなくなった」ということです。これは精神分析の用語を用いて「想像界(きみとぼくの関係)と現実界(この世の終わり)が短絡し、象徴界(社会)の描写ができなくなる」とも言われます。

セカイ系〉の作品をベタに分析することは社会を分析することにはつながりません。それはむしろ現実逃避を推奨する行為にしかならない。したがって、〈セカイ系〉の想像力について語ることは「本来的に」評論を成立させません。そこで行われるのは、作品を通して社会を抉り出す評論ではなく、「ただ自分が好きな作品を深読みし、褒め称えるだけの行為」です。

以上を踏まえると、僕はここで『すかすか』について語るべきことはほとんどありません。むしろ、この作品で注目すべきなのは続編にあたる『終末なにしてますか もう一度だけ、会えますか』(以下『すかもか』)との「関係」です。簡単にあらすじを見てみましょう。

クトリとヴィレムの闘いから五年。レグル・エレはゆるやかに、しかし確実に終わりに近づいていた。しかし、そのような迫りくる終末にも関わらず変わらない社会に、そこに住む人々に苛立つ若き軍人のフェオドールはある計画を秘密裏に進めていた。一方、フェオドールのいる島には4人の少女が降り立つ。彼女たちは「十七種の獣」討伐の任務を受けた精霊だった。軍と「倉庫」とエルピス国のそれぞれの策謀により彼女たちの運命は奇妙にねじれ始める。

 

『すかもか』ではある過去の体験から、世界を呪う青年が、自身をそのようにしてしまった社会に「一撃」を与えようと画策するところから物語が始まります。そのため、社会がどのように構成されているかについても、『すかすか』とは比較にならないほど掘り下げられています。どのような種族のものが生活し、どのような食生活、建築、慣習をもっているかが描かれていきます。以上のように、うまくいっているかはともかくとして、『すかすか』=〈セカイ系〉=社会を描けない作品の続編では、むしろ積極的に社会を描こうとしています。そして、そこに現れるキャラクター達もまた実に決断的(この言葉の意味は後述します)に物語を駆動させていっています。また、『すかもか』では社会を描くために、個々の小さなコミュニティを描くことにかなりの字数を割いているようにも見えます。

これは実に「〈セカイ系〉以後」的です。どういうことでしょうか。それを理解するためには2000年代の中盤に現れた宇野常寛という批評家に注目する必要があります。彼の論旨を追ってみましょう。

 

まず彼の理論は〈セカイ系〉の想像力の問題を引き受けた上で、どうすれば乗り越える事ができるかという点から出発します。彼は処女作の『ゼロ年代の想像力』において、現代社会を弱肉強食的なバトルロワイヤルとし、それに適応できない古い想像力として〈セカイ系〉の想像力を配置します。彼は〈セカイ系〉をひきこもり的なものとして批判します。その上で、ゼロ年代の想像力、すなわちバトルロワイヤルに適応した想像力として〈決断主義〉をあげます。そこでは、自身の「キャラ」ではなく「決断」とそこからの「行為」こそがこの社会を生き抜くうえで肝要となります。ヴィレムのように自身の存在を問うのではなく、フェオドールのように行為をし続ける。これは例えば、『コードギアス』のルルーシュや『デスノート』のライトのようなスタンスです。

ここで、1つの問題が生じます。宇野のいう〈決断主義〉というのは、もともとカール・シュミットの概念です。宇野はそこでシュミットと違う意味として〈決断主義〉を用いてはいます*4が、シュミットのこの概念はナチスに援用された歴史があり、問題含みなのも確かです。繰り返しになりますが、宇野はシュミットとは違う意味で〈決断主義〉を用いていますが、他方でこの常に決断を強いる暴力性への乗りこえとして「小さな共同体」を提示します*5

こうした「小さな共同体」をモチーフとして使った作品は〈日常系〉と呼ばれます。〈日常系〉には、先ほどの〈セカイ系〉の説明を借りれば、想像界(小さな共同体)のみが描かれることになります(現実界(この世の終わり)も象徴界(社会)も描写されません)。例えば、〈日常系〉の代名詞的作品といえば山田尚子監督の『けいおん!』ですが、本作では桜が丘高校軽音楽部の5人を中心とした人間関係(とその部活動と青春を通した小さな成熟)のみが描かれます。作品内の社会が抱える問題(象徴界)や事件性のある出来事(現実界)が発生することはありません。

 

このように整理してみると、「『すかすか』から『すかもか』へ」の構造は「〈セカイ系〉から〈決断主義〉へ」という構造と対応します。この作品は、第一部で「物語=虚構で社会を描けない」という問題に突き当たった作者(枯野瑛)が、それでも社会を描こうとした結果、第二部において〈決断主義〉的な物語を描かざるをえなかった、と整理できるでしょう。そして、これはまさにゼロ年代に起こった批評的流れと重複しています*6

 

さて、ここで次の問題が出てきます。もちろん、社会は、また虚構の想像力はゼロ年代以後も続いています。では、ゼロ年代以後の想像力はどのようなカタチをしているのでしょうか。この問いを考えるために、また別の整理をおこないたい。

宇野は『母性のディストピア』で戦後のアニメーション作家が抱える問題は一貫していると指摘します。彼の議論を極めて単純化して要約しますが、戦後日本には父性が存在せず、母性に支えられたフェイクとしての父性だけしかありません。したがって、宮崎駿の作品では女性だけが空を飛び、富野由悠希の作品では未成熟な男子だけが成長への焦りに駆られ、押井守の作品では終わりなき子宮回帰願望(からの脱却とその不可能性)が描かれる。そしてこれらは全てナウシカララァ草薙素子の母性のもとにしか成立しない。こうした問題意識を引き受けて、戦後社会の虚構の想像力について整理しようとする時、西暦でもなく、昭和/平成という年号でもなく、戦後という時代区分を採用した方が整理がたやすい。例えば、〈セカイ系〉の先駆けとされる『エヴァンゲリオン』は1995年=戦後50年に放送され(東が対象とした10年)、〈決断主義〉の代表作である『コードギアス』と『デスノート』のアニメは2006年=戦後61年に放送され、〈日常系〉の極北的作品である『ごちうさ』は2015年=戦後70年に放送されました。ここでは東が対象とした時代が戦後50年代、宇野が対象とした時代が戦後60年代と読み替えできます。そして、そこでは孤独で内省的な物語の〈セカイ系〉から、孤独で決断的な物語の〈決断主義〉へ、そして小さな共同体で小さな成熟を得る〈日常系〉へという図式が見えてきます。

こうした観点に立つと、2016年=戦後71年に大ヒットした『君の名は。』『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』の3作品は、ここまでの各作品群の総括にあたるでしょう。『君の名は。』の監督である新海誠は、言うまでも無いことだが、〈セカイ系〉の代表作である『ほしのこえ』を制作することでアニメーション界で認知されました。そして、今作もまた、瀧と三葉の関係(想像界)と糸守町の住民の存亡(現実界)を直結させることで成立しています。一方で、物語内での成長として就職と結婚が示され、瀧と三葉が出会うことで物語は終了します。〈セカイ系〉作品を貫く問題は言い換えれば「孤独」をどう扱うかというものです。その問題を描いてきた監督が、就職し結婚すること=社会に適応することを終着とすることに〈セカイ系〉の限界が感じられます。ある意味では、〈セカイ系〉の想像力は所詮幻想です。政治的挫折による社会への期待のできなさと20世紀という世紀末が重なることでたまたま生まれた想像力かもしれません。したがって、ひとつの答えとして「社会を忌避しても成熟は無い。社会と向き合うことで成熟しろ」という作品が創造されることは必然だったのでしょう。

シン・ゴジラ』は日本の官僚機構の総力戦を描いた作品です。総監督の庵野秀明もまた今更説明するような人ではありませんが、『エヴァンゲリオン』で〈セカイ系〉的な想像力を描いたアニメーション作家です。物語の前半において日本的な会議がひたすら開かれ、そこでは積極的な決断はくだされません。それは、例えば、2度目のゴジラの上陸に対し、たった2人の老人の安全確保のために軍事攻撃を中止するシーンや、空疎で責任問題だけを問う会議、また「ゴジラを殺すな」というワンフレーズポリティクスに支えられたデモなどに象徴的です。しかし、ゴジラにより東京が崩壊し総理と大臣がいなくなると、決断的にゴジラ解決に向けて事態が動き出します。したがって、本作は決断しない官僚が積極的な〈決断主義〉により、この国が抱える問題点を強みに活かすことで、ゴジラ(核=今ならば福島)の問題を解決するというシミュレーションであり、そこには〈決断主義〉を促すメッセージが見てとれます。

最後に、『この世界の片隅で』は第二次世界大戦下の広島県呉市を舞台に、軍港で働く一家の日常の物語です。本作は日常に対する下部構造として(実際にあった)戦争という巨大な傷が存在します。そこには、一方に当時の市街の様子や生活の知恵が、他方に戦争により崩壊していく市街と生活が描かれます。したがって、この変化していく日常に対して、終わりなき日常をあつかう〈日常系〉という枠組をあてるのは誤りかもしれません。しかし、主人公であるすずはこの激動する環境こそを終わりなき日常として受け入れた。だからこそ、戦争が終わったとき、その日常がただの幻想であったことを知り怒り、泣いたのです。そして、本作はSF的な読みをするならば、呉に嫁がず広島に残った(=並行宇宙の)すずと実際の(=この宇宙の)すずが娘を介して擬似家族をなして終了します。ここにもまた、〈日常系〉を大きく逸脱する要素が見て取れますが、ここでは割愛させていただきましょう。

上記のような総括を踏まえたうえで、戦後70年代の想像力はどのようなカタチになるのだろうか。私の考えでは、この問いに答えるためにアニメを参照することはもはや不可能だろう。アニメーションは〈日常系〉が始まる時期=2000年代後半から急速にそのクオリティが低下している。もちろんいくつかの例外も存在するが、時代の想像力に答えるような作品、作家は極めて少ない。そのうえで、ひとつの可能性として次回は山田尚子について考えたい*7

*1:『セカイからもっと近くに』p。15

*2:物語の第2部にあたる『終末なにしてますか もう一度だけ、会えますか』では〈セカイ系〉的な要素は徹底して排除されている。また、それに伴い軍隊の内実や社会状況、人々の暮らしなども第1部と比べ飛躍的に詳細に描かれている。

*3:セカイ系〉についての詳しく知りたい方は東浩紀著『セカイからもっと近くに』、前島賢セカイ系とは何か』、また〈セカイ系〉に対する批判として『ゼロ年代の想像力』などを参照するとよいと思われます。ひとつ注意して欲しいのは、〈セカイ系〉というのは多くの作品分析がおこなわれると同時に、〈セカイ系〉の定義についても多くの議論がおこなわれました。それくらい境界が曖昧な作品群なのです

*4:一応注記しておきますが、私の観測する範囲では宇野はシュミットの〈決断主義〉との関連について明確に触れてはいません。しかし、宇野は〈決断主義〉の危険性も意識しその処方箋の可能性のあるものも提示しているので、自覚的だろうと予測されます。

*5:最近の著作である『母性のディストピア』でも、戦後日本のアニメーション作家には一貫した問題があり、その乗りこえとして彼は「中間的なもの」というコミュニティ=共同体を処方箋として提示します。こうした点で彼の論点は現在まで一貫しているといえるでしょう

*6:作品の発表年差を考えると「後追いしてる」と言ってもいいでしょう。厳密には『すかすか』一巻のあとがきを参照すると、二〇〇〇年代前半に物語が構想されていることから重複していると言いました

*7:実際に書くかははなはだ不明なので期待しないように

Remember the name ―― Their name is "Pay money To my Pain"

 最近(と言っても数ヶ月前ですが)、Pay money To my Pain(PTP)のおすすめの曲19選!伝説のボーカルKを知っていますか? - ムチャーチョというエントリが投稿されました。上のエントリの選曲もすばらしいのですが、P.T.P.を知らない人にいきなり19曲だと少しひるむと思います*1。そこで、ここではさらにしぼって入門編3曲と応用編2曲をあげたいと思います。選曲にはいくつかの基準*2がありますので、実際に私が好きな曲、よく聞かれている曲、読者の好きな曲が入っているかはあまり考慮していません。むしろまだP.T.P.を知らないという人のために本記事は書かれています。

 

  さて、曲紹介に入る前に少しだけP.T.P.の紹介を少しだけさせてください。Pay money To my PainはK(Vo)、PABLO(Gt)、T$UYO$HI(Ba)、ZAX(Dr)の4人*3で2004年に結成したバンドです。それからおよそ9年間、ボーカルのKが心不全で急逝しZepp TokyoでのLive「From here to somewhere」まで、時代を駆け抜け多くの作品を手がけてきました。その中で多くのミュージシャンに影響をあたえ、ラウドロックを牽引し、多くのファンをとりこにしてきました。本エントリは(というよりも本ブログは)そんなP.T.P.をひとりでも多くの方に知っていただくため書かれております*4。では少し長い前置きになりましたが、彼らの世界にどっぷりつかっていきましょう!

 

【入門編】

 入門編ではP.T.P.の曲をそのハードロック度で3つに分類し、徐々に激しくなるように配置しました。気に入った曲がありましたら脚注のほうに似たテイストの曲を記しておきますので聴いてみてください。

 1曲目は『Pictures』です*5。私は楽器を触ったことすらないのでかっこいい解説はできませんが、最初のさわやかなギターサウンドから奥ゆきのあるリズム隊と語りかけるようなKの歌声。本当にかっこいいです。

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 2曲目は『Weight of my pride』です*6。僕はP.T.P.のメンバーだとZAXが一番好きなのですが、低音でもかなり響くサウンドをだせるドラマーを私はあまり知りません(そして彼はその数少ないひとりです)。後この動画、Kが楽しそうに歌っていて本当にかっこいいです。

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 3曲目は『Deprogrammer』です*7。同じアルバムに収録されていて、同じくらい激しい『Greed』と迷ったのですが、P.T.P.の激しい曲特有のダークな感じと、彼らの、とくにKの原風景である攻撃的な一面を知ってもらう1曲としてこちらを選びました。書いたとおりダークで攻撃的でありつつも、どこかもの悲しい雰囲気のこの曲はまさにP.T.P.だけの曲といえるでしょう。本当にかっこいいですね(3度目)。

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【応用編】

 さて、ここからは応用編です。ここではP.T.P.の曲を直接取り上げるのではなく、その周辺の曲、その前後の曲を紹介します。つまりP.T.P.結成前の曲と結成後の曲をひとつずつ取り上げたいと思います。そこではP.T.P.がどこから来て、どこを目指し、誰に何をどのように託したのかのヒントが潜んでいるはずです。

 では1曲目の紹介をば。私は先ほど「Kの原風景」と書きました。そこで私が念頭においているのはGUN DOGというバンドです。このバンドはP.T.P.の結成前にKがボーカルをつとめたバンドで、寡作ではありますがこちらもまた名曲ぞろいです。ここでとりあげた『imaginary high』は重厚なサウンドにリズミカルなリリック、そしてダークでしかし一抹の寂しさを感じさせる1曲。

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 最後に取り上げるのは、NoisyCellというバンドです。彼らは2007年に結成し、2014年にP.T.P.と同じレーベルにあたる vap よりデビューしました。彼らのサウンドプロデューサーをつとめるのはP.T.P.のギター担当だったPABLOです*8。ここで紹介する『Innocence』は最初に紹介した『Pictures』のようなさわやかで、しかし奥ゆきのあるサウンドを奏でつつ、P.T.P.のようにある時期のロックミュージシャンが持っていた内省的で非社会的*9な歌詞を語りかけるように歌います。ここでは”I"と”You"の問題だけが問われているのです*10。しかし、こちらの問題を展開すると長くなるのでここでは割愛しましょう。

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 以上がP.T.P.を中心にすえた、彼らの音楽的射程の紹介のほんの入り口になります。ここでは触れることのできなかった彼らの先達が、また彼らの影響をうけて新たな音楽を切り開こうとする者たちがまだまだ沢山いるはずです。もちろんまだまだ私の知らないP.T.P.の世界が、広大にひらけているはずです。ここから先の PTP World の探索は皆さん自身の足でおこなっていただきたい。重要なのはただ1つ。Remember the name.

 

*1:P.T.P.は全ての作品が名曲なので熱意は伝わりまくりましたが笑

*2:一応記しておきますと、

(1)CDを買わずとも聞けるように動画アーカイブサイトに公式よりアップされていること

(2)CDを買いやすいように1つのアルバム(Remember the name)に全て入っていること

(3)応用編ではよりディープなP.T.P.の世界を見てもらうため、かなりアクロバティックな選曲をおこないました。興味のある方はあわせてどうぞ!

*3:初期には加えてJIN(Gt)を含めた5人組でした。

*4:またボーカルのKの逝去から5年が経とうとしている今、個人的な整理と慰霊もこめておりますが、こちらはあまりに個人的な感情ですね。無視していただいて結構です

*5:他にGift、Rain、Innocent in a silent room、Out of my hands、This life、Another day comesあたりがオススメです

*6:他にLast wine、Drive、Sweetest vengeance、Butterfly soars、From here to somewhereなどを聴いてみてください。

*7:下に記しましたGreedに加え、Paralyzed ocean、Unfogettable past、Against the pill、Wallow in self pity、13monsters、Atheistなどなど

*8:彼は他にもAnother Storyというバンドの2ndアルバムのサウンドプロデュースをおこなったり、岡崎体育のギターを担当したり、後私の記憶が正しければ初音ミクのLiveのギターを担当したりと、かなり手広く仕事をおこなっております

*9:反社会的(=パンク)ではなく非社会的という点が重要だと考えます。

*10:歌詞中には”We"という単語がいくどか現れますが、これの意味するところは私とあなたでしょう

All Musics Are Equal――But Some Musics Are More Equal Than Others

 ロックバンド「AA=」という集団がいます。厳密には上田剛志というミュージシャンのソロプロジェクトにあたります(多くのミュージシャンやバンドとフューチャリングしているので上のように表現しました)。また,ロックの中でもハードコア/パンク/テクノなどに属する音楽を主につくっています。しかし、こうした細かい話やジャンル論はおいておいて、とにかく聞いてみましょう。

『ALL ANIMALS ARE EQUAL』

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 このバンド名の由来はジョージ・オーウェル著『動物農場』の一節である「All Animals are Equal」です。今聞いていただいた曲も同名ですので元ネタは同じでしょう。ジョージ・オーウェルは1940年代にいくつかの有名なディストピア小説を著しており、上の作品もその一例です。また、この作家は『1984年』という全体主義社会が徹底されたディストピアを描いたことでも有名です。これらの作品はともに「SF的想像力」に支えられた本といえます。(前者に関してはSF小説とみなす人は少ないでしょうが、SF的な発想に支えられていることは確かです。)

 AA=は他にも『divide~プレイングカードは分離壁の夢を見るか?~』という曲もつくっていて、これはF・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が元ネタになっています(こちらはよくネタにされているので今さら珍しくもないですが)。

 

 さて、私は音楽に「SF的想像力」を持ち込むことを非常に重要視します。月を歌った歌、星を歌った歌は無数に存在します。それは確かです。しかし、今だからこそ、こうした歌を歌うことが重要だと考えます。どういうことでしょうか?

 まず先に「SF的想像力」について考えましょう。もちろんSFといっても、スペースオペラニューウェーブサイバーパンクなど多岐にわたります。こうした多くのサブジャンルを貫く、SFにおいて重要な概念は「ここではないどこか」を想像することです。SFの歴史は「ここではないどこか」の想像(創造)の歴史です。具体的に上のサブジャンルを用いて考えてみます。初期のSFの多くは宇宙を舞台とした冒険活劇で「スペースオペラ」とよばれるものです。これらの作品群は私たちが今住んでいる地球(=ここ)ではない場所として宇宙(アウタースペース)を用意します。これが60年代~70年代にかけて宇宙産業の進展にともない、明確な外として機能しなくなります。そこでSF作家たちは新たに内宇宙(インナースペース)とよばれるものを用意します。内宇宙とは、つまりは人間の心(内面性、主体性)をさす言葉で、こうした問題を扱うジャンルを「ニューウェーブ」とよびます。そしてこれが80年代に入ると「外」でも「内」でもない新たな空間として、「サイバースペース」が現れます。これはもちろんインターネットの発達と関係しており、こうした着想から広がる作品群は「サイバーパンク」と呼ばれます。この後にも上記のような歴史を意識しつつ、再度外宇宙を目指す「ネオ・スペースオペラ」などが誕生していきます。

 このように宇宙や未来、内面性や主体性、インターネットや拡張現実といった、私たちのいる「ここ」とはことなるスペースを想像することでSFは発展してきました(詳しくは東浩紀著『ゲンロン0』の6章などを参照するとよいかと思います)。「ここではないどこか」を今ここから想像すること。こうした「想像力」は必ずしもSFでしか見られないわけではありません。しかし、近代以降におけるこうした想像力(ひいてはそれが可能にする世界)を原理的に考えようとする際にSF小説はとても便利な武器になるでしょう。

 

 では、「SF的想像力」を音楽に持ち込むとはどういうことなのでしょうか?この問いに答えるために批評家である佐々木敦の著作『ニッポンの音楽』を参照します。内容に細かく触れると長いので省きますが、ニッポンのポップミュージックをいくつかに区分して、その歴史を整理した名著です。この著作の最終節で以下のような主張がなされています。

 

 聞いたことのない音楽、言い換えれば、それは「未知の音楽」です。更に言い換えれば、それは「外の音楽」です。空間的な「外」、時間的な「外」。ここまで語ってきたように、「ニッポンの音楽」の物語=歴史の主人公たちは、それぞれの時代に、それぞれの仕方で、日本の「内」にありながら、「外」を志向してきました。」

(『ニッポンの音楽』、p.278)

 

 要は、素朴にはアメリカの音楽の影響を受ける、一昔前の音楽の影響を受けるということです。もう少し踏み込むと、こうした外を想像すること,この想像力を育む土壌が日本の音楽をささえてきたということです。そして、佐々木さんがそこで問題にしているのは、インターネットの発達によってまさに「外」が失われてしまったことです。我々は今やネットを通じてあらゆる地域、時代の音楽をかんたんに聞くことができます。いや、それだけではありません。実際にその時代についてつぶさに調べること、その地域を訪れることすらできるようになってしまいました。こうしたインターネット時代、グローバル時代にいきる私たちは外を新たに創りだす必要があります。外を足がかりにして想像力=創造力を問い直す必要があるのです。 

 さて、ここまで説明すれば話はスムーズです。「外」とは「SF的想像力」になぞらえていえば「ここではないどこか」にあたります。SF的想像力を元に音楽をつくること。それはまだ見ぬ外(=「ここではないどこか」)を想像して音楽をつくることに他なりません。SF的想像力は科学が発達した現代に残されたほとんど最後の音楽的想像力を刺激するものでしょう。例えば、松任谷由実の最新アルバム『宇宙図書館』は、私見では彼女の過去のアルバムの中でもトップクラスの完成度です。これはアルバム名からも分かる通り宇宙を歌った歌です。宇宙の図書館、我々にとっては未知の宇宙をこそ記述する図書館を彼女は想像したわけです。

『宇宙図書館』

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 また、The BONEZというロックバンドの2ndアルバムにあたる『Astronaut』は「”宇宙から地球を見ている”っていうことをリリックの1番のコンセプトにして」いると語られています(The BONEZ | 激ロック インタビュー)。このグループは私が現在最も注目しているバンドのひとつです。下に紹介したものはそのアルバムの1曲目に収録されている『Thread & Needle』です。最初の力強いドラムからもたらされるグルーブは最高です。(しかしZAX(ドラマー)の手、あまりにも複雑かつ早く動いていていて驚きます。人間にあんな動きができるのか・・・)

『Thread & Needle』

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 このように、私が最近感動した曲の少なからずがSF的想像力を起点としたものです。こうした中でSF的想像力を持つアーティストの生存戦略がどのように展開していくか……観測者は私くらいのものでしょうが、見届けていきたいですね。

 

 

 最後に補足としてサイバースペースの音楽について触れてみます。これは付論というか試論のようなものです。おまけと思って気楽に読んでいただけると幸いです。

 さて、上でSFの歴史を大まかにですがまとめました。これを踏まえてこれまで紹介した音楽をもう一度対応させると、松任谷由実の『宇宙図書館』やThe BONEZの『Astronaut』はスペースオペラに、AA=の音楽はニューウェーブに対応していると考えられます(他にもスペースオペラならAimerの2ndアルバムの『Midnight Sun』などが、ニューウェーブならamazarashiや電気グルーブなどがあげられます。そもそも電気グルーブセカンドサマーオブラブとよばれる運動の影響を多大にうけ、まさに「ニューウェーブ」とよばれる音楽ジャンルに属するミュージシャンです。一応の注意としましてSFの「ニューウェーブ」と音楽の「ニューウェーブ」は、その受け入れられ方や流行する年代に若干のずれがあると思われます)。それでは、サイバーパンクに対応する音楽はあるのでしょうか?

 サイバーパンクに対応する音楽、つまりはサイバースペースから発せられる音楽。その日本における代表的なものとして「ボーカロイド」があげられるでしょう。ボーカロイドとはヤマハが開発した音声合成技術、及びその応用製品の総称で、2000年代後半から2010年代初頭にかけて主にオタク文化に対して大きな影響を与えました。まぁ言葉で説明するよりも直接見てもらう方が分かりやすいかと思います。

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 このような感じで、とても人間に歌えない高速の曲や高音域の曲を歌わせることができる(実際には「歌ってみた」などで歌っている人もいますが)とともに、初音ミク巡音ルカといったキャラクターをMMD(「みくみくだんす」の略)という3DCGムービー作製ツールを使って動かすことができます。これは工学的技術の発展によって、サイバースペースにあらわれた新たな人として捉えることができるかもしれません。このボーカロイドは2017年の現在でもオタクの一定層には聞かれているようですが、少なくとも2000年代ほどの影響力はないでしょう。

 では、なぜボーカロイドは聞かれなくなったのでしょうか?この問いに対する情報社会論的な整理からのヒントを、東浩紀の『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』や『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、最近では『ゲンロン0』などを参考に得たいと思います。ここではもっとも新しく、またもっとも平易にまとめられている『ゲンロン0』の第6章『不気味なもの』を中心に参照します。(実際に参照元をあたる際は『ゲンロン0』→『動物化するポストモダン』→『ゲーム的リアリズムの誕生』→『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』の順が良いかと思います。また同氏の小説『クォンタムファミリーズ』も参考になるかと思います。)

 東はサイバースペースを理解するために「分身(分人)」と「不気味なもの」という概念の対立を導入します。これらの概念を理解するにあたって、サイバースペース(インターネット)上のアバター(アカウント)の例(とくにSNSのアカウントの特性に言及したもの)がわかりやすいでしょう。以下に引用します。

 

 現代のSNSのユーザーは(とくに日本では)、しばしば「本アカ」と「裏アカ」を使い分ける。[・・・・・・]本アカは現実の僕たちが運営し、裏アカは電子的な分身が運営している。([ゲンロン0』、p.243)

 

 ここで分身という概念において重要なポイントは本アカと裏アカの区別がはっきりしていることです。しかし、このようなはっきりとした区別、つまり「本アカと裏アカの区別はしばしば失効」します(ゲンロン0、p.244)。そしてそこには「不気味なもの」が現れるというわけです。どういうことでしょうか?

 この「不気味なもの」は精神分析で用いられる概念で、フロイトが提唱しました。例としてあたかも生を持つかのような人形、ドッペルゲンガー、幽霊、同じものの反復などがあげられ、その本質は古くからなじみのもの、よく見知ったものが突然疎遠なものになることです。上の例で言えば、本アカと裏アカの区別、本人とキャラクターの区別、現実と虚構の区別が突然あいまいになり、本アカの中に裏アカがまぎれこみ不気味なものとしてゆがみを与えていくというわけです。東は情報社会を理解するに当たって鍵になるのは分身ではなく不気味なものであると考えます。

 そしてボーカロイドとは分身に対応する音楽だと考えられます。ボカロPボーカロイドを使って作曲をおこなうサウンド・クリエイターの総称)は現実の自身とは区別されるアイドル、例えば初音ミクを通してサイバースペースで歌います。しかし、ボカロPという主体は分身のように現実から切り離されたわけではなく、むしろ不気味なものとして現実の自身にとりつきます。そのゆがみに対して意識的にも本能的にも無自覚だったこと。それがボーカロイドの衰退の理由ではないだろうか。では、不気味なものに対応する音楽とは何か?

 さてここで前半の鍵概念である[外」を導入した佐々木敦の『ニッポンの音楽』をもう一度読んでみましょう。そこではまさにボーカロイドから「不気味の谷」という概念を通してPerfume(さらにそこから中田ヤスタカへ)にいたる議論がなされています(『ニッポンの音楽』、p.259より)Perfumeとは2000年から活動している3人組のテクノポップユニットで、その特徴として楽曲における声の加工と、メディアアーティスト集団「ライゾマティクス」などによる演出があげられます。Perfumeの不気味さはまさにこの声の加工と演出(=場の加工)にあります。一方でよく見知った人間の身体から加工された機械音のような声が、他方で現実の空間にサイバースペースもかくやといった虚構のような空間の重ね合わせが、私たちに不気味なものに取り憑かれる経験をあたえてくれます。(他にもPerfumeは演出にあわせるために、わざと機械的な動きをし、また無表情で歌います。これも不気味なものの経験の契機になっているでしょう)不気味なものの経験、それは現実と虚構の境界、私とキャラクターの境界があいまいになる経験です。そこでは私たちは再度慣れしたしんだものへの問い直しをおこなわなければならないでしょう。そこで私たちは驚くほどあいまいでふわふわとしたモノに囲まれていることにやっと気づくことになるでしょう。

 分身としてのボーカロイドという経験。不気味なものとしてのPerfumeという経験。サイバースペースの音楽とサイバースペースが現実へ侵食した音楽。サイバーパンクに対応する音楽とはサイバースペースでも現実の空間でもなく、実はその間。わずかなスキマにこそ存在していました。

Perfume」のライブ映像。主に1曲目に注目してください。

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 以下は完全に蛇足です。

 ロックには「スペースロック」というジャンルがあります。ピンク・フロイドなどが有名で、サイケデリックロックなどに影響を受け、エコーなどを使った空間的で幻想的なサウンドが特徴です。プログレッシブロックの中でも宇宙(=スペース)などを歌詞の題材としたSF的なものを形容して使われたのが起源といわれています。まさにSF的想像力を原点においた音楽ジャンルですが、日本においてはほとんど知られておらず、また担い手も存在しないこと、それと著者の実力不足で論を展開することができませんでした。興味のある方はぜひ調べてみてください。

 それと、主に付論で参照した東浩紀さんは渋谷慶一郎さん電子音楽アーティスト)と一緒にまさにボーカロイド初音ミクを使って作曲をおこなっています。すでに言ったとおり、私はボーカロイドについて決して明るいわけではないですが、この曲は大変好きです。分身と不気味なものを用いてサイバースペースという概念を乗り越えようとした方が、まさにボーカロイドで曲を作ったというのも興味深いですね。

『イニシエーション』

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